2012年2月28日火曜日

オアシス観音山定款


NPO法人申請に向けて… 特定非営利活動法人『オアシス観音山』定款   


第1章 総則
 (名称)
第1条 この法人は、特定非営利活動法人「オアシス観音山」という。

 (事務所)
第2条 この法人は、主たる事務所を新潟県長岡市宮本1丁目字東甲204番地に置く
 この法人は、従たる事務所を新潟県長岡市青葉台2丁目14番地8号に置く。

第2章 目的及び事業
 (目的)
第3条 この法人は、温かい経済活動(働く喜びを育てる経済活動。助け合い・協力の輪を広げ、人間関係を豊かにする経済活動)を軸にして、「地域の活性化」に寄与することを目的とする。

 (特定非営利活動の種類)
第4条 この法人は、前条の目的を達成するため、次に掲げる種類の特定非営利活動を行う。
まちづくりの推進を図る活動
14 経済活動の活性化を図る活動
15 職業能力の開発又は雇用機会の拡充を支援する活動

 (事業)
第5条 この法人は、第3条の目的を達成するために、次の事業を行う。
 (1)…特定非営利活動に係る事業
   ①道の駅「オアシス観音山」の建設に向けた取組および道の駅を核とした地域の諸
活動の振興
②地域の野菜づくり、及び加工品づくり、手作り工芸品づくりをする仲間の育成
地産品販売活動の支援
   ③地域の素材(米、野菜、山菜等)を使った新しいB級グルメ食品の開発支援
 (2)その他の事業
   ①道の駅が出来た後は、サービス活動、営業活動の推進、障害者等雇用の推進
2 前項第2号に掲げる事業は、同項第1号に掲げる事業に支障がない限り行うものとし、
その収益は同項第1号に掲げる事業に充てるものとする。

第3章 会員
 (種別) 
第6条 この法人の会員は、次の2種とし、正会員をもって特定非営利活動促進法(以下「法」という。)上の社員とする。
 (1)正会員 この法人の目的に賛同して入会した個人及び団体
 (2)賛助会員 この法人の事業を賛助するために入会した個人及び団体

 (入会)
第7条 会員として入会しようとする者は、理事長が別に定める入会申込書により、理事長に申し込むものとし、理事長は、正当な理由がない限り、入会を認めなければならない。
2 理事長は、前項の者の入会を認めないときは、速やかに、理由を付した書面をもって本人にその旨を通知しなければならない。

 (入会金及び会費)
第8条 会員は、総会において別に定める入会金及び会費を納入しなければならない。
 (会員の資格の喪失)

第9条 会員が次の各号のいずれかに該当するに至ったときは、その資格を喪失する。
 (1)本人から退会の申出があったとき。
 (2)本人が死亡し、又は会員である団体が消滅したとき。
 (3)継続して1年以上会費を滞納したとき。
 (4)除名されたとき。

 (退会)
10条 会員は、理事長が別に定める退会届を理事長に提出して、任意に退会することができる。

 (除名)
11条 会員が、次の各号のいずれかに該当するに至ったときは、総会の議決により、これを除名することができる。この場合、その会員に対し、議決の前に弁明の機会を与えなければならない。
 (1)法令、又はこの法人の定款等に違反したとき。
 (2)この法人の名誉を傷つけ、又は目的に反する行為をしたとき。

 (会費等の不返還)
12条 既に納入した入会金、会費及びその他の金品は、返還しない。


第4章 役員及び職員
 (種別及び定数)
13条 この法人に次の役員を置く。
 (1)理事   15人
 (2)監事    2人
2 理事のうち、1人を理事長、2人を副理事長とする。

 (選任等)
14条 理事及び監事は、総会において選任する。
2 理事長及び副理事長は、理事の互選とする。
3 役員のうちには、それぞれの役員について、その配偶者若しくは3親等以内の親族が1人を超えて含まれ、又は当該役員並びにその配偶者及び3親等以内の親族が役員の総数の3分の1を超えて含まれることになってはならない。
4 監事は、理事又はこの法人の職員を兼ねることができない。

 (職務)
15条 理事長は、この法人を代表し、その業務を総理する。
2 副理事長は、理事長を補佐し、理事長に事故あるとき又は欠けたときは、理事長があらかじめ指名した順序によって、その職務を代行する。
3 理事は、理事会を構成し、この定款の定め及び理事会の議決に基づき、この法人の業務を執行する。8
4 監事は、次に掲げる職務を行う。
 (1)理事の業務執行の状況を監査すること。
 (2)この法人の財産の状況を監査すること。
 (3)前2号の規定による監査の結果、この法人の業務又は財産に関し不正の行為又は法令若しくは定款に違反する重大な事実があることを発見した場合には、これを総会又は所轄庁に報告すること。
 (4)前号の報告をするため必要がある場合には、総会を招集すること。
 (5)理事の業務執行の状況又はこの法人の財産の状況について、理事に意見を述べ、若しくは理事会の招集を請求すること。

 (任期等)
16条 役員の任期は、1年とする。ただし、再任を妨げない。
2 前項の規定に関わらず、後任の役員が選任されていない場合には、任期の末日後最初の総会が終結するまでその任期を伸長する。
3 補欠のため、又は増員によって就任した役員の任期は、それぞれの前任者又は現任者の任期の残任期間とする。
4 役員は、辞任又は任期満了後においても、後任者が就任するまでは、その職務を行わなければならない。

 (欠員補充)
17条 理事又は監事のうち、その定数の3分の1を超える者が欠けたときは、遅滞なくこれを補充しなければならない。

 (解任)
18条 役員が次の各号のいずれかに該当するに至ったときは、理事会の議決により、これを解任することができる。この場合、その役員に対し、議決する前に弁明の機会を与えなければならない。
 (1)心身の故障のため、職務の遂行に堪えないと認められるとき。
 (2)職務上の義務違反その他役員としてふさわしくない行為があったとき。


 (報酬等)
19条 役員は、その総数の3分の1以下の範囲内で報酬を受けることができる。
2 役員には、その職務を執行するために要した費用を弁償することができる。
3 前2項に関し必要な事項は、総会の議決を経て、理事長が別に定める。

 (職員)
20条 この法人に、事務局長その他の職員を置く。
2 職員は、理事長が任免する。


2011年7月9日土曜日

国道オアシス観音山 
   『夕べ市』のご案内
                   『夕べ市』運営協議会メンバー
                  明日の郷土を語る会、(株)宮本村
                  (株)晴耕舎、(株)西陵開発
                  *代表:西陵開発社長 平澤平四郎
<このたび>
 中越地震後廃業しました宮本地内の「ドライブイン観音山」の跡地で、野菜の直販夕べ市を始めることになりました。ただ今準備を進めているところです。
    
  その目的はひとえに地域の活性化にあります。通勤帰りのドライバーや、夕方の買い物客に対して、夕採りの新鮮野菜を安く提供することで、人々の交流を広げ、にぎわいのある楽しい国道沿線をつくろうとの考えです。それには、野菜作りを楽しむ地域のたくさんの方々の協力参加がぜひとも必要です。

「夕べ市」の運営
「夕べ市」はフリーマーケットです。当分の間、会員から販売手数料はいただきません。各自が畑の採れたて野菜を持ち込み、安価な値段をつけて自分で販売します。「市」の開設時間は、当面、平日の16:00~19:00の3時間を予定しています。その間の都合のよい時間に販売においでいただきます。

<会員を募集しています>
 野菜の余裕があるときだけの販売で結構です。大勢の参加をお待ちしております。ご質問もお寄せください。   平澤携帯090-4071-1393

2011年7月4日月曜日

国道オアシス「観音山」 『夕べ市』準備中    2011,7月

はじめに
 いずれは、『道の駅』の指定を受けたドライブインとして楽しい国道沿線づくりに寄与し
 たいと夢見る「オアシス観音山」です。障害者支援を含めた地域の人々の豊かなかかわりあいを育て、地域の産物を販売し、国道利用者との温かく楽しいふれあいの場を演出したいと願っています。
 夢に至る過程の第一歩を、野菜の直販『夕べ市』から踏み出そうと思います。7月末までにはスタートする予定です。

「夕べ市」

 家路に向かう通勤ドライバーに焦点を当て、夕方のみ出店する露天市です。ウイングのあるトラックの荷台を国道に沿って配置します。農作業を終えた地域の方々が、採りたての野菜を持ち寄ります。100円、200円…色別のザルに盛り付けて自ら販売します。当面は場所代を取らず、全額を生産販売者が受け取ります。時間はおよそ16:00~19:00の3時間です。販売ノートを置き、いつ誰が何をいくら売ったかの記録を残します。秋には、畑で採れたサツマイモで焼き芋販売を始めます。芋を焼くピザ釜を屋台の脇に作ります。(いずれはピザを焼きます)
 ウイングには自閉症少女の野菜のイラスト絵を描き、看板や案内板を置きます。(新潟日報が記事を書いてくれます)。新鮮で安い野菜の販売活動を展開します。「観音山」が動き出したことを広く知らせます。夕べ市への参加者を広げ、客層をつかみ、今後の展開の資料を蓄積します。西陵開発株式会社はまだしばらく休眠です。畑をお持ちのみなさん!地域の活性のため、野菜の販売者になってください。

 テントによるフリーマーケット

 大型テント設置の確認申請が通り次第、設置して、内部にテーブル等を配置します。西陵開発株式会社が経営を始めるということです。天幕には、楽しい絵を描きます。懸賞付で学生から募集したいと思います。外部にトイレを建設します。野菜の「夕べ市」のほか、休日フリーマーケット、定期的なイベントなどを開きます。休憩所スペースを用意し、ピザ、焼きそば、餃子、たこ焼き…、さまざまな出店者を募ります。国道オアシスとしての機能を育てます。販売者からは、ある程度の使用料を徴収します。各種移動動販売業者の出店も募ります。食品以外に趣味のクラフト作家等の出店も歓迎します。販売やイベントなどの予定表を野外に大きく掲示します。この段階では社員は特に雇いません。この段階の賑わいを見て、次の段階を判断します。

 <参加者募集中>

  
 「夕べ市」への参加者を募っています。参加してくださる方、興味がおありの方はご連絡ください。
      西陵開発株式会社社長 平澤平四郎 携帯090-4071-1393




2011年3月20日日曜日

22 屋久島のタンカン
 毎年、冬の初めに屋久島からポンカンが送られてきます。冬の終わりにはタンカンが届きます。もう30年以上も続いています。
今から43年前、二十歳の時、私は大学で植物生態学を学んでいましたので、春休みに屋久島へ植物を見に行きました。九州最高峰の宮之浦岳を下って栗生という小さな町の公民館に宿をとりました。仲間は私ともう一人を残して先に発ちました。当時、屋久島では50円で旅行者に公民館を提供してくれました。

 翌朝、飯を炊いていると、近所の子供たちが7~8人やってきました。リュックにある食べ物をみんな出してみんなで食べました。それから、みんなで栗生川を遡って大川(おおこ)の滝へ遊びに行くことにしました。子供たちの親が、お米やら野菜やらの差し入れをくれました。滝で遊んで、みんなで雑炊を作って食べ、公民館に帰って夜更けまで遊びました。翌日は栗生の浜辺で一日遊びました。

…家に帰ってしばらくすると子供たちから手紙が来るようになりました。それから数年間、彼らが中学を卒業するまで続きました。手紙の量はダンボール箱いっぱいになりました。その中に都会に出た兄に代わって妹が手紙をくれるようになった子がいました。ポンカン・タンカンの送り主です。
 
 私は新潟の米と笹団子を送ります。小荷物と年賀状のやり取りが、坦々と続いていましたが、1昨年、久しぶりに電話が来ました。聞けば、弟が海で釣りをしているとき、そばで釣りをしていた人が海に落ち、それを助けようと海に飛び込んで助け上げた後、自らは溺れて亡くなったということでした。遠い昔に浜辺で遊んだ子供たちの中で一番幼かった子でした。私は、彼を偲んで下手なお地蔵さんを一つ彫りました。そして今年もタンカンが送られてきました。大きく立派なタンカンです。お地蔵さんの前にそれを一つ置きました。昔は家の庭でとれたという小さくてしみのあるタンカンでしたが、それをもいだのは彼であったと思っています。

 屋久島に行くからね、行くからね、と言い続けて40年が過ぎました。今年こそは本当に行こうと思います。世界遺産にもなって、大きく変わっているだろうと思いますが、昔のままの姿も残っていてほしいと思います。


23 スポーツジム
体は仕事や遊びの中で鍛えるもの、わざわざ時間とお金を使って、トレーニングジムに通うなどありえないと思ってきた私ですが、秋から始めた妻に促されて、この冬、近所のスポーツジムに入会しました。
 用事がなければほぼ毎日、木遊館から帰った5時から3時間弱を施設で過ごします。私のメニューは、自転車1時間、水泳1時間、風呂30分です。初めのうちは息が上がって休憩ばかり取っていましたが、日々行きつ戻りつしながらも、少しずつ、運動が楽になっていくから驚きです。気がつくと、町内のMさんKさん、…TさんにFさんも、なんとたくさん来ていること。そしてみなさん何と体力のあること。「継続の力ですよ平澤さん、頑張ってください」と励まされますが、メタボな自分が恥ずかしくて、なるべく会わない時間に行こうかと思ったりします。
 
 順調にいくと思ったことが甘かった。飲み会が続いたり、所用で旅行に出たりすると、それまでの成果が台無しになっていてがっかりします。自分の意志の弱さ、根性のなさがありありとわかって、辞めようかとも思いますが、「平澤さんはもう辞めたみたいだね」などと噂されるのも癪だし、少しはメタボを解消して若さを取り戻したいという思いもあって、まだ頑張っています。「私は20年になりますが、最初は私もそうでしたよ」と慰められますが、3か月なりの成果を期待してはいけませんかね?

 トレーニングの終わりは風呂です。妻は長湯が好きで、長湯ができない私は、ぬるい露天風呂で時間を過ごします。するとまた、木遊館のボランティアをしてくれる方々など、近所の知り合いと会います。ボランティアをしている人は、大抵いくつものボランティアをしていて、おまけにジムで体も鍛えている方が多いようです。健康だから、意欲も活力もあふれて、様々なボランティアに参加するのでしょう。トレーニングジムが男の井戸端会議の舞台にもなっているようです。でも、私はおしゃべりが長くは続きません。近所の話題についていけません。この先、年をとるほどに行動範囲は狭くなるでしょうから、近所の付き合いが大事になるでしょう。もっと町内に関心を持ち、活動にも参加して、町内の方々と広く深く知り合う必要があると感じました。ジムで体を鍛えて、春からは、町内のボランティアの一つもしようと思います。



24 山菜を考える
 40年前、共に植物生態学を学んだ大学時代の友人にすごい男がいます。彼は神奈川県の林業試験場に勤めながら、学者の道を歩み、基礎研究から木の文化、森遊び、里山作り、世界各地の緑化事業にと飛び回り、退職後は大学教授として活躍しています。著書は数十冊になります。その彼に山菜の本の依頼があると、執筆を私に振ってきます。それは、雪国新潟が山菜王国だからです。それと、田舎教師になった私に、植物の世界を忘れさせないようにとの気遣いだったかもしれません。これまでに3冊、無名の私ですから、共著の形で書きました。いずれも大して売れませんでしたが、山菜は今でも私の得意分野です。

 山野草は、毒がなくてまずくなければ食べられます。とりわけ食べるに値するおいしさや栄養価値があるものを山菜と呼ぶようです。食糧不足の昔は、腹を満たすための増量に使われた山菜もありました。今でこそ堂々と出される山菜も、私が教師になりたての山の学校では、保護者が、「こんなものしかなくて」と引け目がちに出されたものです。お金を使わないもてなしだからです。それが次第に変わってきました。採集、下ごしらえ、調理に手間と時間がかかる山菜は、野菜に勝る価値の高いものであり、買ってきた惣菜以上の価値があるという認識に変わりました。堂々と誇り高く山菜料理を出します。
 
 よく知られた山菜の多くは、実は繁殖力の強い植物です。だからこそ毎年の採集にも耐えて、生き延びているのです。生える環境さえ続けば、簡単に絶えたりはしません。細いゼンマイ、伸びたウドを山の人は取らないからです。ところが、今は山の奥まで車が入り、都会からも来て、根こそぎ取っていく人がいたりして絶滅した場所もあります。何といっても大規模開発で山が削られ、谷が埋められることが一番の打撃です。

山の学校で地域おこしのアイデアを求められたとき、私はいつも「山菜ランド構想」を話しましたが、山菜が増えれば必ず盗まれるということで話は立ち消えてしまうのでした。それもあってか、山菜を畑で栽培する人が増えてきました。まだ多くはありませんが、いずれは野菜並みになっていくのでしょう。
自然の中で山菜を採る市民のささやかな楽しみはあっていいと思います。春は、もうそこまで来ています。

25 山菜山構想
 40年来の、山を持ちたいという思いは空しく、高齢者になりました。山の幸を豊かにする山づくりを、実際を通じて提案したかったのですが、力不足で入手できませんでした。校長になって、地域の方と知り合う中で、山を生かした地域活性化の一例として「山菜山」を構想する機会を得ましたが、それも「思い」で終わりました。
 こんな構想です。山菜やキノコの自生地を拡げるための適度な作業を行い、遊歩道を整備し、ツリーハウスを作るなど、自然の中で楽しい活動を行う基盤を整備するというものです。経済的基盤は山菜の収穫です。それぞれの山を調べ、最小の管理作業で山菜の自生を拡げることが研究課題です。

 構想がなぜ進まなかったかというと、地主とボランティア作業員の、しっかりした組織ができなかったことです。私一人でも、若い時から手掛けていれば、説得力のある見本を示して、組織を作ることができたかもしれません。山菜山構想から15年が経過しました。あの時手掛けていれば、ある程度形になっている頃です。しかし、あの時はみんな若く、日々の生活みに精いっぱいでしたから無理もありません。少なくとも時間的にはゆとりある前期高齢者になった今が、むしろ「その時」なのかもしれません。

 山菜の自生を拡げるためには、自生地で少し手を加えるのが一番です。間伐して有用樹を育て、光と空間と植物の組み合わせを調整するのです。ススキやクズに覆われた荒れ地には、早く高く成長して葉を拡げるコシアブラやタラ、アケビなどを植え、光をさえぎることが有効だと思います。少しずつ整っていけば、作業の大部分は収穫作業ということになるでしょう。

 さて、最後の課題は、山菜をお金に換えるところですが、今構想を進めている「オアシス観音山ドライブイン」がそれです。惣菜食堂の春のメニューに使うほか、朝市、夕市で販売します。ドライブインの存在が、さまざまな多くの活動を繋いでくれるものと夢見ています。

半年間、私の拙い話を聞いてくださった方々、ありがとうございました。夢ばかり描いてはなかなか前へ進まない私ですが、長岡においでの際はぜひ木遊館にお立ち寄りください。さようなら。



26 人生の筋書き
 「人生は筋書きのないドラマである」と言われます。人は、時代を選べず、親を選べずこの世に生を受けます。どんな時代か、どんな親か、どんな場所か、どんな人間関係にあるかなど、人生の初期設定には自らの意思が入り込む余地はありません。筋書きのないドラマの始まりですが、未知の可能性が広がっています。

 親からもらった体を元手として人は成長し、自己選択の力を広げます。生きる道筋は無数にありますから、それなりに自分を活かす道を選択することはできます。どの道を選び、どれほど努力し、チャレンジするかも、自分で決められます。蓄えた力量という制約はありますが、自己責任で大まかな筋書きは描けるということです。ただし、筋書き通りにはならないことや、筋書きになかったことが起きることも多いということで、筋書きのないドラマと言うのでしょう。とりわけ人との出会いや思わぬはハプニングがドラマと言えるでしょう。

 大学4年の年、私は、政府支援のタンザニア植物研究員として派遣が決まりました。しかし、現地の戦争状態が続いていて入国許可が出ませんでした。待たされている間に、新潟に来て叔母の養子になり、とりあえず教師になり、結婚もしました。職業と結婚の選択は、誰にとっても大きな選択です。私は、1つの手違いと3つの選択で、現在に至る人生のあらすじが決まったと言えるでしょう。タンザニアに行っていたら、教師にならなければと言うような疑問は誰しも持ちますが、同時に複数の人生を歩むことはできませんから答えは出ません。出ないならば、この選択でよかったと思う方が幸せです。過去の選択は未来の選択の肥やしにして、現在を意欲的に生きたいと思います。

 前期高齢者の今、少しはドラマチックな面白い筋書きを描きたいと思いますが、「夢ばかり追いかけて」と妻にはあきれられています。あきれられても、夢のある筋書きを描いて、チャレンジする人生を演じて、人生を終わりたいものと思っています。


2011年2月26日土曜日


17 教え子
 「教え子」と言う言葉は教師がよく使う言葉です。名が知れた人であれば、あの人は私の教え子だなどと、とかく自慢げに話します。でも、教え子の側からすると、「そんな先生もいたな」ぐらいの思いであるかもしれません。自分がさほどの関わり方をしなくても、その後の教え子の頑張りや成功を、心から嬉しく思うのが教師です。反対に、教え子が大変だ、苦しんでいると聞くと悲しく、何もできないけど何とかしてあげたいと思います。

 どちらかと言うと、私は後者の教え子が気になります。しかし、先日、教え子の頑張っている姿を知って、私は嬉しさで興奮しました。毎年、年賀状をくれる子ですが、何をしているか詳しいことは知りませんでした。ところが、今年の年賀状には、「人生で一番苦労した年でした」とありました。気になって、住所の脇に書いてあるホームページアドレスに繋いでみると、LEDの蛍光灯を売り出している会社でした。そして、その代表取締役社長が、教え子その人でした。資本金1億円、本社は東京銀座とありました。新潟営業所はふるさとの小千谷にありました。30歳半ばで起業して1年半、昨今の経済状況を思えば、人生最大の苦労もうなずけます。

 小学時代、真冬でも半袖短パンでした。スキー授業もそれでした。健康で我慢強く、温厚で正義感が強く、チャレンジ精神に富む子でした。ロサンゼルスに渡って映画製作を学んでいたようですが、帰国して会社勤めをしていたようです。挫折もあったでしょうが、様々な経験をして、様々な世界を学んで、一念発起の起業なのでしょう。そしていきなりの厳しい試練を受けて、人生一番の苦労を味わったということでしょう。

 LED,発光ダイオード照明は、時代が求めていますから、今を持ちこたえれば会社は大きく飛躍するでしょう。彼にはその力も根性もあると信じています。若干35歳で東京のど真ん中に会社を興した男のチャレンジ精神は、新潟県の若者たちに勇気を与えるものと思います。私も勇気をもらいました。陰ながらその成功を応援したいと思います。
教え子の先を生きるから先生、何事も「して見せて」が一番大事と心得ます。たびたびお話しているオアシス観音山構想ですが、春には広い芋畑を借りて、秋には焼き芋を売るところから、行動に移そうと思います。

18 男の心意気
 28歳で赴任した前川小学校は小規模校で、若い男教師は私一人でした。児童数も少ないので、部活動は、全員が夏は水泳部、秋は陸上部でした。野球好きの保護者が野球部を作って欲しいと校長に掛け合いますが、頑として受け付けません。すると、体育主任の私に掛け合いに来ます。代表して来るのはいつもコーキングと呼ばれている人でした。「校庭は狭くて野球はできませんよ。それに伝統の水泳指導があるから、私は野球部を担当できません。できるとすれば、どこかの広場で誰かが野球部を指導するしかありません。でもそんな広場は学区にありませんし、指導は誰がしますか?条件が整えば校長も認めるでしょう」と言いました。コーキングは、自分が指導すると申し出て、校長を押し切りました。

それからがすごい。地域の建設会社に話をつけ、学区の仲間のオペレーターを動員して、信濃川河川敷に一晩で100mの取り付け道路を作り、ひと月で河原に1ヘクタールの野球場を作ってしまいました。放課後になると4,5,6年の男子は家に帰って、河原に走りました。私は女子の水泳部指導です。

 コーキングは若い時に事故で片目、片腕を失ったそうです。それから勉強して漏水防止のコーキング専門会社を興しました。その道では有名な社長さんです。野球指導の時は、片手でバットとボールを持ち、片腕の脇にグローブを抱えて立ちます。ボールを投げ上げてバットで打ち、返ってくるボールはバットを放してグローブをはめて捕ります。その動作のすばやいこと、そしてうまいこと、見事でした。押しも強いが自腹もきる、肝の据わった、きっぷのよい男の言葉、「片目・片腕がなくても、あるものをフルに使えば、あっても使わない人よりずっと多くのことができるものさ」。私は彼から男の心意気を学びました。

 余談ですが、前川にはお寺が一つあり、当時の住職は地元中学校の先生時代にコーキングの世代を教えたそうです。お寺の本堂の下には地下室があり、カラオケバーがありました。彼らはそこを「バー墓場」と呼んでよく宴会をしました。私も時々お邪魔しました。住職に聞くと、「学区には飲み屋もないので、若者やお年寄りの寄ったかり場所にしようと思ってね」とのことでした。粋な和尚さんは昨年秋、仏になりました。合掌。


19 果樹の庭
 私は、果物の心が好きだから、庭木はみんな果樹にしました。モモ、クリ、カキ、ナシ、サクランボ、ウメ、アンズ、スモモ、キウイ、イチジク、グミ、ビワにユズ、まだまだあります。カキも富有、ハッチン、次郎とあるように、品種で数えると30種を超えるでしょう。22年たって、クリもカキも根元の径は25cmになりました、と言うと、いかにも広い庭を想像するでしょう。しかし、私の屋敷は80坪、家と車庫で45坪あるから、残り35坪と言うとみんな驚きます。種類はたくさんでも、光と空間の不足で実りは偏ります。今年はカキとキウイがそれぞれ6~7百個、ナツメが豊作で、その他はまるで駄目でした。

 果樹はどちらかと言うと姿形が整いません。庭木には向きませんが、それを言い訳にして手入れをしません。人様はよく雪囲いをしていますが、私は面倒でしません。面倒でもそれが雪国の風物詩なんだと友人は言いますが、時間も金もかかる雪囲いを、みんなが楽しんでいるとは思われません。雪国には雪に強い庭作りがあってよさそうなものです。大学の造園の先生に聞いてみましたが、手入れの要らない雪国仕様の日本庭園は特にないということでした。多分、京の都の庭園が地方に伝わったものなのでしょう。

 我が家の果樹の庭はまた、山菜の庭でもあります。下草にフキ、ミツバ、アサツキ、ヨメナ、ウド、アケビ、ミョウガ、ヤマイモ、アマドコロなどが雑草のごとく生えますので、食べて調整しています。雪国の庶民の庭はそんなものだったでしょう。

 学校の校庭も果樹がいい。私はそう主張して、校庭に余地があれば植えてきました。サクラ、イチョウもあっていいですが、多くの木は、子供にとってほとんど関心がありません。「この木なんの木?」と聞かれることもなく、聞かれて答えられる教師もあまりいません。サクラだけでいい、緑があればいい、庭木として整っていればいい、というレベルではなく、子供が親しみ、遊び触れあい、知りたいと思う木を植えるべきです。教科書に名が出てくる木もいいでしょう。でも1番いいのはグミ、ナツメ、クリ、サクランボ、イチジク、カキ、アケビ、ヤマボウシ、木イチゴ類など、つまみ食いのできる、花も実もある果樹でしょう。トチやドングリ類のようにおもちゃになる樹もいいでしょう。


20 学校の森
 庭木ついでに、学校の森について少し述べようと思います。学校の近所に自然の野山がない都市部の学校で、校庭に学校の森を造るという運動があります。その趣旨は美しい庭園でも果樹園でもなく、「ふるさとの森づくり」です。その地をそのまま放置したら、このような自然の森になるという潜在自然植生を見出して植えるのです。長岡の市街地であれば、およそコナラ・クリ・オオヤマザクラなどが大木になる雑木林です。木遊館のある雪国植物園がその見本です。大金と多くの労力をかけて雑木林を造るのですから、学区の方々の理解が必要です。遊具よりも、駐車場よりも価値があることを納得いただかなければなりません。校長が替っても、末長く活用するカリキュラムを示さなければなりません。校庭に広い余裕があればよいが、市街地にそんな学校はあまりありません。山の方に行けば校庭に余裕がある学校もありますが、近くに山があればそこを活用すればよいから、校庭に森は要りません。

 私が最後に勤めた出雲崎小学校は、「学校の森」活動を進める絶好の条件を備えていました。校舎の裏山およそ0,5haが樹齢50年を超えるコナラ林で、学校の敷地なのです。春には全面カタクリの花が咲きます。隣接する森は私有地、町有地、県有地ですが、広く一帯を使用できました。およそ1haを「穂波が丘」と称して、さまざまな活動に使いました。もとは中学校であった土地に小学校を建てたもので、山も多少使った痕跡がありましたが、着任した時は、藪に囲まれた恐ろしく暗い山で、児童の立ち入りは禁止されていました。

 「して見せて、言って聞かせてさせてみて、…」の教えに従って、まず、私が校舎の裏の斜面の藪を鋸と刈り払い機で整備しました。続いて用務員と一緒に道や階段を整備しました。1年かかりました。児童の理科や総合の授業展開、体験学習で林内の枝払い整備、広場の整備を進め、炭焼き活動、山菜調理、きのこ栽培、遊具やツリーハウス造りのクラブ活動、PTAと応援隊の整備事業と進めて認知されるようになりました。校舎の裏に出入り口を作り、昼休みに児童が自由に山遊びできるようにしました。学校林事業の補助を受けて斜面に50本ほどの果樹を児童が植えました。この一連の顛末をレポートにしてコンクールに応募したところ、全国学校林事業で準優勝をいただき、北海道の植樹祭で表彰されました。新聞に載り、知れ渡ると、穂波が丘はみんなが自慢する学校の森になりました。


21 プールで釣りを
冬になると思いだすのは、40年前、私が長岡に来た年の寒ブナ釣りです。仕事もなく、友人もなく、毎日釣りをして過ごすうちに冬となり、近所の水門での小鮒釣りになりました。雪が降る中でじっとしゃがんで浮きを見つめていると、自分が空へ昇っていくような錯覚に陥ります。竿を持つ軍手に雪が積もり、冷えた指が動かなくなります。釣りをしている時はほんに孤独を忘れます。釣った小鮒は義理の母が甘露煮にしてくれました。とてもうまかったことを覚えています。 
その後は海の雑魚釣りが私の息抜きとなりました。キス、アジ、サヨリ、ソイ、アイナメと季節を追いかけます。釣った魚はすべて調理して我が家の貴重なおかずになります。

 教師時代、学校のプールほど利用率の低い施設はないと思いました。利用するのは6、7、8月の3カ月でした。残り9カ月は防火用水です。最近は消火栓が整備されたのでそれも用なしです。水を張っておかないとプールが傷むということですが、それがまた危険要因にもなります。雪が積もったプールに落ちて死亡事故も起きています。

 水泳シーズンが終わったら、プールは釣り堀にするのがいい。私は勤務した12カ校のうち4カ校でそれを行いました。魚は錦鯉の選別もれです。特に秋の選別では10~20cmに育っていて手頃です。川に捨てれば生態系を乱すので、養鯉業者は殺すしかありません。これを数千匹もらってきてプールに放し、落ち着いたら釣りをします。許可するのは昼休みや放課後、道具は私が作って貸し出しました。針は返しのないものを使い、餌はそれぞれ工夫させます。その他いろいろ約束事を決めて守らせます。子供たちは大喜びでした。冬が近づくと釣れなくなり、自然に釣りは終わります。不思議なことに、翌年のプール掃除のとき、魚がいた試しがありません。死骸もありません。サギやイタチの仕業だと言う人もいますが、よくわかりません。私のほかにプールで釣りをさせた教師がいたかどうかは知りませんが、保護者の反対で出来なかったことはありました。「プールが魚臭くなる、魚が糞をして汚い、プールは泳ぐところで釣りをするところではない、プールに落ちたら大変」などなど、色々反対されますと無理にはしませんでした。ラジオをお聞きのみなさんはどう思いますか?

2011年1月18日火曜日

12 プレジョブ支援
 みなさんはプレジョブという活動を知っていますか。プレジョブは、障害のある子供たちの社会参加を訓練する活動です。主に特別支援学校、学級の生徒が参加しますが、希望する誰でもが対象です。とかく引きこもりやすい障害者を社会に連れ出し、知ってもらって、親しくなって、共に生きる地域の輪を広げる取組です。そのプレジョブが、新潟市に続いて長岡市でも、私の住む青葉台地区で発足しました。親の会のSさんとTさんの三丁目コンビがリーダーとなり、町内、行政、企業にと精力的に働きかけています。

プレジョブには、受け入れ企業とジョブサポーターが必要です。「障害者はたくさんいるのにプレジョブ参加希望者が意外に少ないのはどうして」と、会長のSさんにお聞きすると、「障害者が社会に出るときは、授産施設に入れればよいとか、面倒かけるだけで成長は期待できないといった、あきらめや遠慮があるようです」とのことでした。「でも、先進地では確実に成果が出ています。子供は働く喜びを知り、自信をつけています。成果が知れ渡れば、参加希望者はどんどん増えるでしょう」と話を続けます。「企業は思っていた以上に協力してくれます。気長に粘り強く活動すれば、地域に障害者理解が進み、居場所が広がって、温かい社会になっていくのです」と、目を輝かせます。親は、この子私の子です、いい子ですと、障害のあるわが子を堂々と連れ出してほしい、仕事を通じた温かい人々との触れ合いを重ねれば必ず成長します」とのことでした。

 私もジョブサポーターをしています。対象となる子供の数に比べてサポーターの数が多いので、私は月に1回1時間のサポートでした。半年を経て、町内のT君とは大いに仲良くなりました。これからもずっと友達でいたいと思います。次はどんな子とペアを組むかも楽しみです。おじさんでも嫌がらない、差別のない、純真な心は、彼らに共通する魅力です。
 先日、プレジョブリーダーのSさんとTさんが、「地域支援センター設立に向けて」というスケジュール表を持ってやってきました。準備1年、実績作り2年を経てNPO法人を立ち上げる。地域支援センター発足から就労移行支援事業所開設まで2年、都合5年計画の夢を熱く語りました。若い指導者が育っていることを実感しました。前期高齢者の私としては、出来る限りの応援をしたいと思いました。

13 ふるさと教育の心
 おはようございます。2010年も残り僅かになりました。里帰りでふるさとに帰って、子供時代を懐かしく振り返っている方もいることでしょう。人は生まれる時代も、親も、ふるさとも選べずに生まれます。温かいふるさとを持つことは人生の大きな支えです。「ふるさとは遠きにありて思うもの、…帰るところにあるまじや…」と歌った室生犀星は不幸です。不幸でも、そこしかないのがふるさと、自分の原点でありますから愛しくも懐かしくもあるのです。

校長時代、学校経営の柱の一つに「ふるさと教育」を掲げました。それは次のような書き出しです。
「鮭はなぜふるさとの川に帰ってくるのでしょう。それは、自分がこの川で生まれ、育ち、確かに成長できたという事実こそ、最も信頼できる場所だからです」。そして、「小学校は、ふるさとの大きな部分を占めています。そこで確かに育てられたという記憶を、どの子にも持たせなければなりません。ひとりでも、ふるさとを愛せない子供を育ててはなりません。それができなければ、学校の存在意義はありません。ふるさとのより大きな部分を占める地域もまた、怠慢のそしりを受けるでしょう。学校と地域は、一体となって子供に確かな力と温かい記憶を育まなければなりません」と結びます。

 しかし、それは永遠に課題です。目指して努力するのみです。良かれと思って精一杯努めるしかないのです。私が教師としてかかわった子供たちがどんな振り返り方をしているか、知りたいようで怖くもあります。そして今、大人への入り口で苦戦している若者たちが、教え子の中にもたくさんいます。それでも、「子供時代はよかった、あのころは夢と希望があった、そしてふるさとは今も自分を温かく迎えてくれる。自分には帰るところがある」と感じてくれれば嬉しいことです。里帰りしたら、友達を誘って、お子さんを連れて、自分が通った小学校、中学校を訪ねてみませんか。ちなみに、私が通った小学校は、校庭の入口に鍵がかかっていて入れませんでした。塀の外から眺める母校には、昔の面影はわずかに残るのみでした。

 挫折してふるさとに帰った若者には、せめて再出発の手がかりをつかませたい。そんな支援ができたらいい。退職した教師の正直な思いです。以前お話ししました「地域株式会社」はそんな心も大事にしたい会社です。

14 ヤマボウシの会
 あけましておめでとうございます。正月気分も今日まででしょうか。今年はどんな年になるでしょう。景気がよくなって、若者が希望を持てる年であってほしいものです。

私が20年来、万年事務局長をしている「ヤマボウシの会」は、会則らしきものがありません。年に数回、恒例の会を案内すると、都合のつく人が20人ばかり集まって来て、飲んで話す会です。行政、企業経営、教育、研究、社会奉仕など様々な分野でご活躍中の後期高齢者が多いのが特色です。
 
 銀山平に山小屋を経営する仲間がいて、時折そこで会を持ちます。10年ほど前、庭に引かれている荒沢岳の伏流水がとてもうまいのでこれは酒にいいだろうと調べてもらったところ、案の定、酒造りに非常に適した水だということでした。早速、その水を仲間が経営する蔵元に運んで、純米酒を仕込みました。試飲会での仲間の評価は、「すっきりさわやかな辛口の絶品」に落ち着きました。ラベルは仲間の版画家が描き、紹介文は会長が書き、山小屋で売り出しました。売り上げの一部を登山道整備に寄付することにしました。以後、その酒が、「ヤマボウシの会の酒」になりました。銀山平は雪が深いので、雪室を作って雪中貯蔵をし、6月にこれを開きます。銘酒が一層まろやかとなり、2か月遅れの山菜料理に舌鼓を打ちます。そんなよしみで、今年も蔵元の選手として利き酒大会に出ますが、どれを飲んでもみんな美味いので、利き酒は当たりません。

 事務局長は飲み会の準備をするほか、会合を案内する会報を書くのですが、余った紙面を埋めるために勝手な文章を載せます。教育のこと、学校経営のこと、地域興しのことなど、私の思いを書き続けて90号になります。すると仲間から色々な意見や支援が寄せられ参考になります。山菜の本の出版、雪国植物園でアルプホルンを吹く音楽祭、木遊館の活動、障害者支援、そして今回、オアシス観音山ドライブインの構想なども、仲間の意見を参考に進めています。人付き合いの苦手な私ですが、「ヤマボウシの会」を通じて知り合った人のつながりは、お金に勝る財産です。今年も妻の助けを借りて、事務局長を続けようと思っています。



15 手作り弁当の日
 昨今はやりの食育ですが、その範囲はかなり広いと言えます。食と健康、食事のマナー、食糧の生産・消費・流通・ゴミ問題、世界の食糧事情及び飢餓問題、調理する人、家族のことなど、学ぶことはたくさんありますが、人は、ほかの生き物の命をいただいて生きているという認識の深まりと感謝の心は食育の中核であると私は思います。米作り、野菜作り、牛、豚、ヤギの飼育など、いろいろな挑戦をしている学校があります。でも、増やせないのが調理体験です。給食があるので作る必要がないのです。

 ある学校で、月に1回、給食を止め、子供が手作りする「手作り弁当の日」を提案し、実施しました。親が作る花見弁当ではありません。おにぎり、のり弁当など、簡単に作れるものを子供が自分で作ってくる日なのです。学年に応じて担任が毎回指導しました。しかし、その初回の日、近所のみならず隣町のコンビニの弁当までが売り切れとなりました。何があったのだと、議会で話題になったそうです。お察しの通り、親が買って、それを弁当箱に詰め替えて子供に持たせたのです。回を重ねて、少しずつ自作弁当は増えましたが、まったくしない子もかなりいました。その後も保護者からは賛否両論が寄せられました。十分な議論と準備期間を置かずに、学校の一方的な実施であったと反省しています。そんな手作り弁当ですが、昨今、全国的に実施の動きが広がり始めているようです。手順を踏んで合意を形成してから取り組んでいたら、あるいは先進校と呼ばれていたかもしれません。

 学校を替って、調理の力を育てる取組は家庭学習に位置づけました。家庭学習の内容を教科にとどめず、運動や稽古、手伝いも含め、その中心に炊事・調理を置きました。30分単位で1点、1日3点までとし、100点たまると手づくりの賞を出しました。食育指導とあいまって、担任も指導に力を入れました。1年生の担任は、80%の児童がお米をといでご飯が炊けます。と嬉しそうに話してくれました。蛇足ながら、このような家庭学習の取組をすると、学力テストがいつも5点は上がりました。
 10歳までに調理・炊事の習慣を育てることが大事だと私は思っています。調理・炊事の力は生きる力の背骨です。自立の基礎の中の基礎です。包丁も早くから持たせたほうがいい。調理・炊事の力を大いに発揮して、家族に貢献する喜び体験を重ねれば、将来、家庭を築く大きな力となるでしょう。


16 田麦山マラソン
 おはようございます。寒いこの時期、私は木製のトロフィーを作ります。台座は自然木の輪切り、胴体はロクロを挽いてそれらしく作り、トップの飾りは大会ごとのオリジナルです。大会とはマラソン大会です。川口の田麦山ロードレース、田麦山クロスカントリー、東京市民マラソンの3大会で使用する計150個余りのトロフィーやカップを作ります。木製のトロフィーを提案したのは田麦山スポーツ振興会の森山正夫さんです。もう一人、振興会の来賓として長らく交流のある宇佐美彰朗さんです。かつてオリンピックマラソン選手として活躍した宇佐美さんが、山の大会には素朴な木製トロフィーがいいと推奨し、使ってくれるのです。
 
田麦山は小さな集落ですが、昔ながらの人間関係が生きています。活動のリーダーが森山さんです。こんな小さな集落に500人が参加するロードレース、250人が参加するクロスカントリーの2つのマラソン大会があります。地域の人のボランティアで25年も続いています。近頃は、東京からもたくさんの選手やボランティアがやってきます。

また、田麦山スポーツ振興会を核として、たくさんの会が発足しました。木工「杣の会」、アルプホルンの会、田麦山自然塾、魚沼線沿線の会などです。その後、中越地震があり、震源地の田麦山には多くの復興ボランティアがやってきましたが、そのまま活動仲間になった方も少なくありません。今年から自転車のクロスカントリーも始まりました。遠方からの参加者の宿舎は廃校となった田麦山小学校です。宿泊を世話するボランティアの会も生まれました。
 
 ごく普通の山村である田麦山で、様々な活動が次々興るのはなぜでしょう。それは人の温かさです。自主自立の精神で地域を盛り上げようと手弁当で動く人たちがたくさんいるからです。山があれば山を、道具があれば道具を、力があれば力を、ある物を惜しみなく提供し合うことで、少ない予算でも活動ができるのです。魅力あるリーダーのもとに、魅力ある人々、心意気のある人たちが集まってきて、自主的に動いているから素晴らしい。貢献する喜びを知る人たちです。私も大いに感化された一人です。たびたびお話ししているオアシス観音山構想には、田麦山の前期高齢者仲間を誘って、山菜手打ちそばの店をぜひとも加えたいと思います。