2011年3月20日日曜日

22 屋久島のタンカン
 毎年、冬の初めに屋久島からポンカンが送られてきます。冬の終わりにはタンカンが届きます。もう30年以上も続いています。
今から43年前、二十歳の時、私は大学で植物生態学を学んでいましたので、春休みに屋久島へ植物を見に行きました。九州最高峰の宮之浦岳を下って栗生という小さな町の公民館に宿をとりました。仲間は私ともう一人を残して先に発ちました。当時、屋久島では50円で旅行者に公民館を提供してくれました。

 翌朝、飯を炊いていると、近所の子供たちが7~8人やってきました。リュックにある食べ物をみんな出してみんなで食べました。それから、みんなで栗生川を遡って大川(おおこ)の滝へ遊びに行くことにしました。子供たちの親が、お米やら野菜やらの差し入れをくれました。滝で遊んで、みんなで雑炊を作って食べ、公民館に帰って夜更けまで遊びました。翌日は栗生の浜辺で一日遊びました。

…家に帰ってしばらくすると子供たちから手紙が来るようになりました。それから数年間、彼らが中学を卒業するまで続きました。手紙の量はダンボール箱いっぱいになりました。その中に都会に出た兄に代わって妹が手紙をくれるようになった子がいました。ポンカン・タンカンの送り主です。
 
 私は新潟の米と笹団子を送ります。小荷物と年賀状のやり取りが、坦々と続いていましたが、1昨年、久しぶりに電話が来ました。聞けば、弟が海で釣りをしているとき、そばで釣りをしていた人が海に落ち、それを助けようと海に飛び込んで助け上げた後、自らは溺れて亡くなったということでした。遠い昔に浜辺で遊んだ子供たちの中で一番幼かった子でした。私は、彼を偲んで下手なお地蔵さんを一つ彫りました。そして今年もタンカンが送られてきました。大きく立派なタンカンです。お地蔵さんの前にそれを一つ置きました。昔は家の庭でとれたという小さくてしみのあるタンカンでしたが、それをもいだのは彼であったと思っています。

 屋久島に行くからね、行くからね、と言い続けて40年が過ぎました。今年こそは本当に行こうと思います。世界遺産にもなって、大きく変わっているだろうと思いますが、昔のままの姿も残っていてほしいと思います。


23 スポーツジム
体は仕事や遊びの中で鍛えるもの、わざわざ時間とお金を使って、トレーニングジムに通うなどありえないと思ってきた私ですが、秋から始めた妻に促されて、この冬、近所のスポーツジムに入会しました。
 用事がなければほぼ毎日、木遊館から帰った5時から3時間弱を施設で過ごします。私のメニューは、自転車1時間、水泳1時間、風呂30分です。初めのうちは息が上がって休憩ばかり取っていましたが、日々行きつ戻りつしながらも、少しずつ、運動が楽になっていくから驚きです。気がつくと、町内のMさんKさん、…TさんにFさんも、なんとたくさん来ていること。そしてみなさん何と体力のあること。「継続の力ですよ平澤さん、頑張ってください」と励まされますが、メタボな自分が恥ずかしくて、なるべく会わない時間に行こうかと思ったりします。
 
 順調にいくと思ったことが甘かった。飲み会が続いたり、所用で旅行に出たりすると、それまでの成果が台無しになっていてがっかりします。自分の意志の弱さ、根性のなさがありありとわかって、辞めようかとも思いますが、「平澤さんはもう辞めたみたいだね」などと噂されるのも癪だし、少しはメタボを解消して若さを取り戻したいという思いもあって、まだ頑張っています。「私は20年になりますが、最初は私もそうでしたよ」と慰められますが、3か月なりの成果を期待してはいけませんかね?

 トレーニングの終わりは風呂です。妻は長湯が好きで、長湯ができない私は、ぬるい露天風呂で時間を過ごします。するとまた、木遊館のボランティアをしてくれる方々など、近所の知り合いと会います。ボランティアをしている人は、大抵いくつものボランティアをしていて、おまけにジムで体も鍛えている方が多いようです。健康だから、意欲も活力もあふれて、様々なボランティアに参加するのでしょう。トレーニングジムが男の井戸端会議の舞台にもなっているようです。でも、私はおしゃべりが長くは続きません。近所の話題についていけません。この先、年をとるほどに行動範囲は狭くなるでしょうから、近所の付き合いが大事になるでしょう。もっと町内に関心を持ち、活動にも参加して、町内の方々と広く深く知り合う必要があると感じました。ジムで体を鍛えて、春からは、町内のボランティアの一つもしようと思います。



24 山菜を考える
 40年前、共に植物生態学を学んだ大学時代の友人にすごい男がいます。彼は神奈川県の林業試験場に勤めながら、学者の道を歩み、基礎研究から木の文化、森遊び、里山作り、世界各地の緑化事業にと飛び回り、退職後は大学教授として活躍しています。著書は数十冊になります。その彼に山菜の本の依頼があると、執筆を私に振ってきます。それは、雪国新潟が山菜王国だからです。それと、田舎教師になった私に、植物の世界を忘れさせないようにとの気遣いだったかもしれません。これまでに3冊、無名の私ですから、共著の形で書きました。いずれも大して売れませんでしたが、山菜は今でも私の得意分野です。

 山野草は、毒がなくてまずくなければ食べられます。とりわけ食べるに値するおいしさや栄養価値があるものを山菜と呼ぶようです。食糧不足の昔は、腹を満たすための増量に使われた山菜もありました。今でこそ堂々と出される山菜も、私が教師になりたての山の学校では、保護者が、「こんなものしかなくて」と引け目がちに出されたものです。お金を使わないもてなしだからです。それが次第に変わってきました。採集、下ごしらえ、調理に手間と時間がかかる山菜は、野菜に勝る価値の高いものであり、買ってきた惣菜以上の価値があるという認識に変わりました。堂々と誇り高く山菜料理を出します。
 
 よく知られた山菜の多くは、実は繁殖力の強い植物です。だからこそ毎年の採集にも耐えて、生き延びているのです。生える環境さえ続けば、簡単に絶えたりはしません。細いゼンマイ、伸びたウドを山の人は取らないからです。ところが、今は山の奥まで車が入り、都会からも来て、根こそぎ取っていく人がいたりして絶滅した場所もあります。何といっても大規模開発で山が削られ、谷が埋められることが一番の打撃です。

山の学校で地域おこしのアイデアを求められたとき、私はいつも「山菜ランド構想」を話しましたが、山菜が増えれば必ず盗まれるということで話は立ち消えてしまうのでした。それもあってか、山菜を畑で栽培する人が増えてきました。まだ多くはありませんが、いずれは野菜並みになっていくのでしょう。
自然の中で山菜を採る市民のささやかな楽しみはあっていいと思います。春は、もうそこまで来ています。

25 山菜山構想
 40年来の、山を持ちたいという思いは空しく、高齢者になりました。山の幸を豊かにする山づくりを、実際を通じて提案したかったのですが、力不足で入手できませんでした。校長になって、地域の方と知り合う中で、山を生かした地域活性化の一例として「山菜山」を構想する機会を得ましたが、それも「思い」で終わりました。
 こんな構想です。山菜やキノコの自生地を拡げるための適度な作業を行い、遊歩道を整備し、ツリーハウスを作るなど、自然の中で楽しい活動を行う基盤を整備するというものです。経済的基盤は山菜の収穫です。それぞれの山を調べ、最小の管理作業で山菜の自生を拡げることが研究課題です。

 構想がなぜ進まなかったかというと、地主とボランティア作業員の、しっかりした組織ができなかったことです。私一人でも、若い時から手掛けていれば、説得力のある見本を示して、組織を作ることができたかもしれません。山菜山構想から15年が経過しました。あの時手掛けていれば、ある程度形になっている頃です。しかし、あの時はみんな若く、日々の生活みに精いっぱいでしたから無理もありません。少なくとも時間的にはゆとりある前期高齢者になった今が、むしろ「その時」なのかもしれません。

 山菜の自生を拡げるためには、自生地で少し手を加えるのが一番です。間伐して有用樹を育て、光と空間と植物の組み合わせを調整するのです。ススキやクズに覆われた荒れ地には、早く高く成長して葉を拡げるコシアブラやタラ、アケビなどを植え、光をさえぎることが有効だと思います。少しずつ整っていけば、作業の大部分は収穫作業ということになるでしょう。

 さて、最後の課題は、山菜をお金に換えるところですが、今構想を進めている「オアシス観音山ドライブイン」がそれです。惣菜食堂の春のメニューに使うほか、朝市、夕市で販売します。ドライブインの存在が、さまざまな多くの活動を繋いでくれるものと夢見ています。

半年間、私の拙い話を聞いてくださった方々、ありがとうございました。夢ばかり描いてはなかなか前へ進まない私ですが、長岡においでの際はぜひ木遊館にお立ち寄りください。さようなら。



26 人生の筋書き
 「人生は筋書きのないドラマである」と言われます。人は、時代を選べず、親を選べずこの世に生を受けます。どんな時代か、どんな親か、どんな場所か、どんな人間関係にあるかなど、人生の初期設定には自らの意思が入り込む余地はありません。筋書きのないドラマの始まりですが、未知の可能性が広がっています。

 親からもらった体を元手として人は成長し、自己選択の力を広げます。生きる道筋は無数にありますから、それなりに自分を活かす道を選択することはできます。どの道を選び、どれほど努力し、チャレンジするかも、自分で決められます。蓄えた力量という制約はありますが、自己責任で大まかな筋書きは描けるということです。ただし、筋書き通りにはならないことや、筋書きになかったことが起きることも多いということで、筋書きのないドラマと言うのでしょう。とりわけ人との出会いや思わぬはハプニングがドラマと言えるでしょう。

 大学4年の年、私は、政府支援のタンザニア植物研究員として派遣が決まりました。しかし、現地の戦争状態が続いていて入国許可が出ませんでした。待たされている間に、新潟に来て叔母の養子になり、とりあえず教師になり、結婚もしました。職業と結婚の選択は、誰にとっても大きな選択です。私は、1つの手違いと3つの選択で、現在に至る人生のあらすじが決まったと言えるでしょう。タンザニアに行っていたら、教師にならなければと言うような疑問は誰しも持ちますが、同時に複数の人生を歩むことはできませんから答えは出ません。出ないならば、この選択でよかったと思う方が幸せです。過去の選択は未来の選択の肥やしにして、現在を意欲的に生きたいと思います。

 前期高齢者の今、少しはドラマチックな面白い筋書きを描きたいと思いますが、「夢ばかり追いかけて」と妻にはあきれられています。あきれられても、夢のある筋書きを描いて、チャレンジする人生を演じて、人生を終わりたいものと思っています。