2011年2月26日土曜日


17 教え子
 「教え子」と言う言葉は教師がよく使う言葉です。名が知れた人であれば、あの人は私の教え子だなどと、とかく自慢げに話します。でも、教え子の側からすると、「そんな先生もいたな」ぐらいの思いであるかもしれません。自分がさほどの関わり方をしなくても、その後の教え子の頑張りや成功を、心から嬉しく思うのが教師です。反対に、教え子が大変だ、苦しんでいると聞くと悲しく、何もできないけど何とかしてあげたいと思います。

 どちらかと言うと、私は後者の教え子が気になります。しかし、先日、教え子の頑張っている姿を知って、私は嬉しさで興奮しました。毎年、年賀状をくれる子ですが、何をしているか詳しいことは知りませんでした。ところが、今年の年賀状には、「人生で一番苦労した年でした」とありました。気になって、住所の脇に書いてあるホームページアドレスに繋いでみると、LEDの蛍光灯を売り出している会社でした。そして、その代表取締役社長が、教え子その人でした。資本金1億円、本社は東京銀座とありました。新潟営業所はふるさとの小千谷にありました。30歳半ばで起業して1年半、昨今の経済状況を思えば、人生最大の苦労もうなずけます。

 小学時代、真冬でも半袖短パンでした。スキー授業もそれでした。健康で我慢強く、温厚で正義感が強く、チャレンジ精神に富む子でした。ロサンゼルスに渡って映画製作を学んでいたようですが、帰国して会社勤めをしていたようです。挫折もあったでしょうが、様々な経験をして、様々な世界を学んで、一念発起の起業なのでしょう。そしていきなりの厳しい試練を受けて、人生一番の苦労を味わったということでしょう。

 LED,発光ダイオード照明は、時代が求めていますから、今を持ちこたえれば会社は大きく飛躍するでしょう。彼にはその力も根性もあると信じています。若干35歳で東京のど真ん中に会社を興した男のチャレンジ精神は、新潟県の若者たちに勇気を与えるものと思います。私も勇気をもらいました。陰ながらその成功を応援したいと思います。
教え子の先を生きるから先生、何事も「して見せて」が一番大事と心得ます。たびたびお話しているオアシス観音山構想ですが、春には広い芋畑を借りて、秋には焼き芋を売るところから、行動に移そうと思います。

18 男の心意気
 28歳で赴任した前川小学校は小規模校で、若い男教師は私一人でした。児童数も少ないので、部活動は、全員が夏は水泳部、秋は陸上部でした。野球好きの保護者が野球部を作って欲しいと校長に掛け合いますが、頑として受け付けません。すると、体育主任の私に掛け合いに来ます。代表して来るのはいつもコーキングと呼ばれている人でした。「校庭は狭くて野球はできませんよ。それに伝統の水泳指導があるから、私は野球部を担当できません。できるとすれば、どこかの広場で誰かが野球部を指導するしかありません。でもそんな広場は学区にありませんし、指導は誰がしますか?条件が整えば校長も認めるでしょう」と言いました。コーキングは、自分が指導すると申し出て、校長を押し切りました。

それからがすごい。地域の建設会社に話をつけ、学区の仲間のオペレーターを動員して、信濃川河川敷に一晩で100mの取り付け道路を作り、ひと月で河原に1ヘクタールの野球場を作ってしまいました。放課後になると4,5,6年の男子は家に帰って、河原に走りました。私は女子の水泳部指導です。

 コーキングは若い時に事故で片目、片腕を失ったそうです。それから勉強して漏水防止のコーキング専門会社を興しました。その道では有名な社長さんです。野球指導の時は、片手でバットとボールを持ち、片腕の脇にグローブを抱えて立ちます。ボールを投げ上げてバットで打ち、返ってくるボールはバットを放してグローブをはめて捕ります。その動作のすばやいこと、そしてうまいこと、見事でした。押しも強いが自腹もきる、肝の据わった、きっぷのよい男の言葉、「片目・片腕がなくても、あるものをフルに使えば、あっても使わない人よりずっと多くのことができるものさ」。私は彼から男の心意気を学びました。

 余談ですが、前川にはお寺が一つあり、当時の住職は地元中学校の先生時代にコーキングの世代を教えたそうです。お寺の本堂の下には地下室があり、カラオケバーがありました。彼らはそこを「バー墓場」と呼んでよく宴会をしました。私も時々お邪魔しました。住職に聞くと、「学区には飲み屋もないので、若者やお年寄りの寄ったかり場所にしようと思ってね」とのことでした。粋な和尚さんは昨年秋、仏になりました。合掌。


19 果樹の庭
 私は、果物の心が好きだから、庭木はみんな果樹にしました。モモ、クリ、カキ、ナシ、サクランボ、ウメ、アンズ、スモモ、キウイ、イチジク、グミ、ビワにユズ、まだまだあります。カキも富有、ハッチン、次郎とあるように、品種で数えると30種を超えるでしょう。22年たって、クリもカキも根元の径は25cmになりました、と言うと、いかにも広い庭を想像するでしょう。しかし、私の屋敷は80坪、家と車庫で45坪あるから、残り35坪と言うとみんな驚きます。種類はたくさんでも、光と空間の不足で実りは偏ります。今年はカキとキウイがそれぞれ6~7百個、ナツメが豊作で、その他はまるで駄目でした。

 果樹はどちらかと言うと姿形が整いません。庭木には向きませんが、それを言い訳にして手入れをしません。人様はよく雪囲いをしていますが、私は面倒でしません。面倒でもそれが雪国の風物詩なんだと友人は言いますが、時間も金もかかる雪囲いを、みんなが楽しんでいるとは思われません。雪国には雪に強い庭作りがあってよさそうなものです。大学の造園の先生に聞いてみましたが、手入れの要らない雪国仕様の日本庭園は特にないということでした。多分、京の都の庭園が地方に伝わったものなのでしょう。

 我が家の果樹の庭はまた、山菜の庭でもあります。下草にフキ、ミツバ、アサツキ、ヨメナ、ウド、アケビ、ミョウガ、ヤマイモ、アマドコロなどが雑草のごとく生えますので、食べて調整しています。雪国の庶民の庭はそんなものだったでしょう。

 学校の校庭も果樹がいい。私はそう主張して、校庭に余地があれば植えてきました。サクラ、イチョウもあっていいですが、多くの木は、子供にとってほとんど関心がありません。「この木なんの木?」と聞かれることもなく、聞かれて答えられる教師もあまりいません。サクラだけでいい、緑があればいい、庭木として整っていればいい、というレベルではなく、子供が親しみ、遊び触れあい、知りたいと思う木を植えるべきです。教科書に名が出てくる木もいいでしょう。でも1番いいのはグミ、ナツメ、クリ、サクランボ、イチジク、カキ、アケビ、ヤマボウシ、木イチゴ類など、つまみ食いのできる、花も実もある果樹でしょう。トチやドングリ類のようにおもちゃになる樹もいいでしょう。


20 学校の森
 庭木ついでに、学校の森について少し述べようと思います。学校の近所に自然の野山がない都市部の学校で、校庭に学校の森を造るという運動があります。その趣旨は美しい庭園でも果樹園でもなく、「ふるさとの森づくり」です。その地をそのまま放置したら、このような自然の森になるという潜在自然植生を見出して植えるのです。長岡の市街地であれば、およそコナラ・クリ・オオヤマザクラなどが大木になる雑木林です。木遊館のある雪国植物園がその見本です。大金と多くの労力をかけて雑木林を造るのですから、学区の方々の理解が必要です。遊具よりも、駐車場よりも価値があることを納得いただかなければなりません。校長が替っても、末長く活用するカリキュラムを示さなければなりません。校庭に広い余裕があればよいが、市街地にそんな学校はあまりありません。山の方に行けば校庭に余裕がある学校もありますが、近くに山があればそこを活用すればよいから、校庭に森は要りません。

 私が最後に勤めた出雲崎小学校は、「学校の森」活動を進める絶好の条件を備えていました。校舎の裏山およそ0,5haが樹齢50年を超えるコナラ林で、学校の敷地なのです。春には全面カタクリの花が咲きます。隣接する森は私有地、町有地、県有地ですが、広く一帯を使用できました。およそ1haを「穂波が丘」と称して、さまざまな活動に使いました。もとは中学校であった土地に小学校を建てたもので、山も多少使った痕跡がありましたが、着任した時は、藪に囲まれた恐ろしく暗い山で、児童の立ち入りは禁止されていました。

 「して見せて、言って聞かせてさせてみて、…」の教えに従って、まず、私が校舎の裏の斜面の藪を鋸と刈り払い機で整備しました。続いて用務員と一緒に道や階段を整備しました。1年かかりました。児童の理科や総合の授業展開、体験学習で林内の枝払い整備、広場の整備を進め、炭焼き活動、山菜調理、きのこ栽培、遊具やツリーハウス造りのクラブ活動、PTAと応援隊の整備事業と進めて認知されるようになりました。校舎の裏に出入り口を作り、昼休みに児童が自由に山遊びできるようにしました。学校林事業の補助を受けて斜面に50本ほどの果樹を児童が植えました。この一連の顛末をレポートにしてコンクールに応募したところ、全国学校林事業で準優勝をいただき、北海道の植樹祭で表彰されました。新聞に載り、知れ渡ると、穂波が丘はみんなが自慢する学校の森になりました。


21 プールで釣りを
冬になると思いだすのは、40年前、私が長岡に来た年の寒ブナ釣りです。仕事もなく、友人もなく、毎日釣りをして過ごすうちに冬となり、近所の水門での小鮒釣りになりました。雪が降る中でじっとしゃがんで浮きを見つめていると、自分が空へ昇っていくような錯覚に陥ります。竿を持つ軍手に雪が積もり、冷えた指が動かなくなります。釣りをしている時はほんに孤独を忘れます。釣った小鮒は義理の母が甘露煮にしてくれました。とてもうまかったことを覚えています。 
その後は海の雑魚釣りが私の息抜きとなりました。キス、アジ、サヨリ、ソイ、アイナメと季節を追いかけます。釣った魚はすべて調理して我が家の貴重なおかずになります。

 教師時代、学校のプールほど利用率の低い施設はないと思いました。利用するのは6、7、8月の3カ月でした。残り9カ月は防火用水です。最近は消火栓が整備されたのでそれも用なしです。水を張っておかないとプールが傷むということですが、それがまた危険要因にもなります。雪が積もったプールに落ちて死亡事故も起きています。

 水泳シーズンが終わったら、プールは釣り堀にするのがいい。私は勤務した12カ校のうち4カ校でそれを行いました。魚は錦鯉の選別もれです。特に秋の選別では10~20cmに育っていて手頃です。川に捨てれば生態系を乱すので、養鯉業者は殺すしかありません。これを数千匹もらってきてプールに放し、落ち着いたら釣りをします。許可するのは昼休みや放課後、道具は私が作って貸し出しました。針は返しのないものを使い、餌はそれぞれ工夫させます。その他いろいろ約束事を決めて守らせます。子供たちは大喜びでした。冬が近づくと釣れなくなり、自然に釣りは終わります。不思議なことに、翌年のプール掃除のとき、魚がいた試しがありません。死骸もありません。サギやイタチの仕業だと言う人もいますが、よくわかりません。私のほかにプールで釣りをさせた教師がいたかどうかは知りませんが、保護者の反対で出来なかったことはありました。「プールが魚臭くなる、魚が糞をして汚い、プールは泳ぐところで釣りをするところではない、プールに落ちたら大変」などなど、色々反対されますと無理にはしませんでした。ラジオをお聞きのみなさんはどう思いますか?

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